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保守主義が依拠する英米系哲学は、基本的に断定を嫌う。常識や慣習を重んじるから保守であり、悪く言えば悪しき慣習や既得権益も保守する。一方、革新側はマルクス経済学、さらに遡ってヘーゲル哲学、カント哲学のような断定を好く。目の前のことよりも奥の本質を見抜こうとするが、必ずしも真裏を突いているわけではない。
ただ、ヘーゲル哲学やマルクス経済学の「正ー反ー合」の進み方も、ロックやヒュームの「観念連合」の哲学も、どちらも「合」という字に共通点がある。つまり何かがつながり合う。革新側は保守側に対して「反」を提示した後「合」という未来(超克?)を目指す。他方、保守も王政時代に比べれば議会政治や市場経済を通じて「合」という未来(超克ではない)を目指す。
右と左の共通点であり、どちらも頭を使う人でなければ「合」を目指すことはできない。政治の世界では、右と左の両方の勢力は今後もあるようだ。しかしどちらにも限界を感じる。その理由を考えてみるに、英米系哲学とドイツ系哲学という人間哲学が、実はまだ人間学的に欠陥があるからではないかという結論に達した。
保守も革新も人間哲学に基づいている点に強みを持っているようだが、もう少し事実と照らし合わせて考え直してみてはどうか。反のない正もあれば、合のない反もあるし、合が新たな反と出会わなくてもよいことだってある。観念連合だって、連合後にぶち切れたり、切れた後に再びつながったり、また切れたり…、これが事実であり自然だ。理想と現実とは違う。で、「合」の逆、あるいは「合」ではない事についてもう少し深めれば、新しい政治的方向が見えてくるだろう。
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